内なる・・・(障害者支援という仕事について)

昨日苦戦したわりに今日は拍子抜けするくらい時間通りに事が運んで、残りの時間で(利用者である)Aさんとゆっくり話せるくらいだった。でも私の心の中では、混乱と恥ずかしさと失望と、でもだからこそこれからがんばろう、もっと分かりたいという気持ちが渦巻いていた。

それは利用者が帰ってくる前に、先輩スタッフの小沢さん(仮名・年上の男性)と話していた時のことだ。

私「昨日Aさんはお風呂になかなか入れなくて、結局10時くらいになってしまいました…」と愚痴とも報告ともつかないことを言い、だから、今日は男性の利用者さんを先に入浴介助してもらったほうが時間が逼迫しないのではないかと、まあ自分でも時間内にみんなが慌てずに終われる策を考えたふうなことを言ってしまったのだ。(その前に会った他の先輩スタッフが先に言っていた意見をそのまま口にしてしまったとはいえ、自分も何も考えていない発言だったとのちに反省する)

すると小沢さんは「ううん。そうじゃない。まずはAさんの意向を確認しないと。先にお風呂に入りたいのかどうかを」と言われ、私は、ハッと、そうだこれ何度も言われてることだった…としゅんとした。

スタッフの都合で時間内に円滑に物事が進むようにすることは「良い」ことではない。仕事ができる人であり、うまくいったということに見えがちだがそれは違う。そうだったよ。ばかだよ、私。

小沢さんは続けて言った。「Aさんが怒った時にいつも口にする言葉わかる?『私のことバカにして!』ですよ」

私は「え!」と思った。自分は聞いたことはなかったけれど、そんな言葉を発していたのか。人からバカにされていると「思って」もしくは「気づいて」いる。私たちはどこかで、支援する側、される側、と区別して差別して見下しているのかもしれない。そう思っていないつもりでも、どこかに、支援者と利用者という力関係を感じたことはこの仕事をする人なら誰でも気づくだろう。

ショックだった。

小沢さん「だから丁寧に接していかないといけないんです。ないがしろにしていないんだと、尊重しているんだということをきちんと態度で示していかないと」と続けた。

私は殴られたような痛み。

丁寧にしているつもりだったけど、きっと自分(スタッフ)の都合にあわせるよう誘導し、本人が本当に望んでいることを踏みにじってきてしまったかもしれないことを何度も何度も考えた。

他の話題になった時、私は「障害の軽い人は」という言葉を使ってしまった。

よく、軽度とか重度とかこの世界、この制度内では使われる言葉だけども、小沢さんはすぐさま否定した「障害が重い軽いは関係ありません」。私が伝えたかった内容はどうでもいい。それを言われた瞬間に、私は植松聖とそう変わらない思考をしているのではないかと恐ろしくなったのだった。よく内なる優生思想とかいうけれど、それよりももっとひどい。内なる植松聖だ。あの、相模原、津久井やまゆり園で19人の障害者を殺害した死刑囚である。

私は自らの思考の浅さと行動の軽率さを思い、恥ずかしくなった。苦しくなった。どうしたらいい?今までいったい何を学んできた?何を読んできた?それは形だけの、ポーズだけの学問もどき?

いろいろと打ちのめされて沈んだ。そして、ここから変わらなければ、もっときちんと理解しなければと思った。みんなのために。みんな、ごめん、今までごめんという気持ち。一見、当たり前に仕事しているようで私は何もわかっていなかったと思う。理解しようとしているつもりで、自分優先だったのかもしれない。

そして、小沢さんにこれから相談しようと思った。この職場は優しい人が多い、気楽に接することができる人が多い。楽しい。でも、専門性は?といった時に、何も語れなかった。話題もテレビやらニュースやら噂話みたいなことで、それは本当に普通の職場のそれで、私はすこし、物足りなさも感じていたのは確かだった。もっと知りたい。支援という世界を、そしてここにいるみんなのことを。

これからは何かに迷った時に「小沢さんならどう考えるかな」「小沢さんならどう解決していくだろうか」と想像しよう。わからなくなったり困ったら相談をしようと決めた。今まで、何をやっていたのだろう。私はちゃんとします。私はしっかりとみんなと向き合って、みんなが楽しく生活できる最善のことを尽くしていきたい。

本気で、前から本気なのだけど、さらに、本気で、がんばろうと思った。

このことを書き留めておかないと、また空気に流されていい加減になってしまうのではないかと怖くなった。植松聖が現れるのではないかと。だから帰って来て、急いで書いた。