東京の匂い

4月24日(土)晴れ。函館→東京

午前中、父は起きていた。体調はすこし回復傾向のよう。でも不安も大きいらしく涙ぐむような場面もあった。苦しみは本人にしかわからない。ずっと側にいる母もまた別のつらさを抱えているだろう。人を支えるとはこういうことか、と母の姿勢を見ていて思った。果たしてわたしにそれができるだろうか?

入院なんてしたら、今はコロナの関係で面会すらできない。そうなると、父はどんどん弱っていくだろう。だから家で過ごすのが一番なのだと思う。わたしもなるべく暗くならないように、普段通りに接する。

わたしはたぶん苦しみに寄り添えていない。だって頭の中では、早く東京に戻りたいと思っていたのだから。自分の生活のほうが大事なのだ。自分が東京で何を感じ、何に悩み、誰と会って何をする話す、そのことの方に頭がいってしまった。もしくは、あえて現実を見ないようにして、気を逸らすために苦しみの論点をすり替えているのだろうか。分からない。

お昼過ぎ、ガラガラの新幹線に乗る。頭を巡る様々なことがしんどくて、眠くないのに無理に眠る。でもマスクが息苦しくてハッと起きてしまう。最近、この酸欠みたいな症状が多くて困る。仕事中も、人がいないところでマスクを外して空気を思いっきり吸っている。きっと、同じような状態になっている人は沢山いるのだろうな。自由に息が吸える場所に行きたい。

東京駅に着いて、新幹線を降りた瞬間空気の違いに気づく。思わず、マスクから鼻だけ出してみる。匂い。東京の匂いがした。都会の空気の匂い。それがなんだか愛おしいようにすら思える。東京ではわたしは自由で、誰にも干渉されず、自分が決めたことを自分の好きなようにやっている。他人だらけで、わたしに誰も関心を持たないことも気楽な要素だ。たぶん東京の匂いを嗅いだ時、その何もかもから解放されていいというのを感じ取るのかもしれない。

匂いはすぐに消えて無くなった。匂いは常にそこにあるのだろうが、わたしの方が完全に溶け込んだ瞬間に匂いに包まれて、何も感知しなくなる。中央線に乗り換えて、西国分寺駅で降り、タクシーに乗って帰った。わたしの部屋はわたしの安心する匂いがした。でももうしない。溶け込んだからだ。