死とか趣味とか過去や物語についてのただの雑記

 またしばらく書いていなかった。最近思っていることを少し。

 相変わらず、時間さえあれば毎日サウナに通っている。だんだんと自分に合う場所というのもわかってきた気もするし、でも日によって気分も変わるからそれは絶対的な価値ではないよなとも思う。私の心身は日々揺れ動いて、そして破壊と修復を繰り返している。修復が追いつかなくなった時、消えていくんだろうな。猫のクロのように。

 そうだ。先月クロが死んだ。もう17歳とかだから寿命だろう。けれど、昨年末に続いて猫が1匹ずついなくなっていく喪失感は多分新しい何ものかでは埋まらない。生きてきた歴史が心の中だけに刻まれる。肉体としてのぬくもりや声、触ることのできる何もかもが損なわれてしまっている。けど、人生、というか生命はずっとそういうもので、生まれた瞬間からそちら側へと移行を続けるもので、「わたし」の目から見た世界は常にポロポロと零れ落ちるそれをただただ見送るしかないのかもしれない。不意に死んでしまった友達の意識はもうここには漂っていないのだろうか。たぶん、無。あの人ならこんな風に言いそう、っていつも考えてるけど、そんなのわかりっこない。

 最近、思うことがあった。あらゆる趣味、その活動、そのコミュニティー、集団かもしれないし、個人かもしれないけれど、名のつくもの、なんとなく「〜界隈」。そういうのって、最初はワクワクして楽しいけれど、どんどん面倒で縛られるようなことになる。実際に発せられた言葉から察することもあれば「無言の声」も聞こえてくるようになる。誰もが最初はにわかでそしてオタク的、専門的になっていけばいくほど窮屈な枠に自ら入っていくようになる。決まりごとが多くなり、目線が変わる。

 そういうのを何度も経験しては逃げた。本当に好きなものこそ、個であり続けて自由でいた方が良いのかもしれない。人は共感で深まるけれど、群れない心地よさもある。静かに本と対峙してその中に入っていくような体験。あの感覚に似たものは忘れないでおきたい。誰かを批判して、自分が上に立つような言動をしないように。いつも謙虚であれるように気をつけたい。

 「過去」についてもずっと考えていた。自分や誰かを許せないと思うことについて。あったことは無かったことにはできないから、脳内でずっと繰り返されるうちに強化されますます責め続けることもある。反面、時を経るごとに忘却によって楽になることもある。いずれにしても苦しみは無くなるわけではないが、生きていかなければならないわけで、その緩和を文学に求めることもあれば、心理学的思考、あるいは哲学、他者の体験や映画、音楽の中にヒントを見つけることもある。揺るぎない過去に苦しむことにあっては、ここ数日で見た『カルテット』という2年ほど前のドラマに掬い取ってもらったような気がした。

 時々思う。物語を書いてみたら、私の中でくすぶっている何かが昇華されるのではないか?って。そうしたら、細々としたカスみたいな亡霊が成仏するんじゃないかって。けど、それによってせっかく自然に備わっている忘れるという機能が作動せず、ずっと刺青みたいに生涯に渡って残るのかもしれないなとか。それだと損するなとか。(最近、私の中にも損得勘定が生まれるようになった)

 私小説を読むのは好きだけど、割とそんなことを書いてしまった人というのは、その物語の中に自分を閉じ込めてしまって抜け出せないまま人生を閉じているのかもしれない。自分の恥や情けなさ、人から向けられた悪意も全部含まれたままで。

 できるだけ良い空気を思い出したい。肯定的な関係性と時代を。『愛し愛され生きるのさ』なんて聞いてたあの頃の無敵さをたまに思い出して照れるけど、やっぱり在ってくれて助かった。なんてことを考えてる。ではまたね。Bye