旅に出なくても行ける場所

 20代の後半、私は水疱瘡にかかった。始めたばかりのコンビニバイトから帰って来て、その夜中だった。その日は長くジュースを補充する仕事をしていたから体が冷えただけだと思っていた。しかし今までに感じたことのない悪寒がし、これはただの風邪ではないと直感的にわかった。そして母が運転する車で夜間病院に行った。水疱瘡だとわかり、翌日入院することになったのだ。入院中、熱にうなされる中で私の意識は遠い国、多分イメージではオーストラリアの海、ただの想像だけれども、その美しい海岸を見ていた。天気が良く透き通った海、波の音、ヤシの木、平和で暖かいところ。苦しむ体から意識が逃げたようだった。

 退院後もしばらくは外に出られなかった。身体中に黒くボツボツとかさぶたができ、その見た目もひどいものだった。その頃たまたま両親が近所の人たちと日帰りで一緒に行った温泉のパンフレットを持ってきてくれたことがあった。私はそのパンフレットに写る温泉のお湯の色(それは透明で浴槽のタイルの水色が生き生きと揺れているようだった)、窓の外の緑豊かな景色、洗い場のシャワーや桶、ジャグジーなどをまじまじと眺め、そして温泉に入って心地よく過ごしている自分を想像した。湯気やシャンプーの匂いなども思い浮かべることができた。おばさんたちの話し声、お母さんと子ども、おばあちゃん、みんなそれぞれの生活があり、そしてその日常でくつろぐ場所だ。気軽に行けるような場所でも、こんな体の私には想像することしかできない。私は何度も何度もそのパンフレットを眺めた。それは車で1時間ほどの距離なのに当時の自分の中では遠い世界の写真で、そして外に出ることのできない私にとってのなぐさめだった。元気になったらいつでも行ける場所だ。あの日常的で美しいなんでもない写真にどれほど救われたかわからない。

 回復してから行こうと思っていたのにあれから十数年経った今もまだ行っていない。それでも私の心の中ではずっと思い出として残っている。そこに行かなくても十分に感じることができたパンフレットの中の温泉だ。