ぼんやり

ぼんやりした1日。お昼にやっちゃんがスーパーに買い物に行ってくれた。すごい混雑だったらしい。品切れの棚がいっぱいあったり一人1つの購入制限のものもあるらしい。どうしても不安だと買い込んでしまう気持ちは何となく理解できる気がする。私はいつも無くなってから慌てて買う派だったけど、いつ物が棚から消えるかわからないと思うと、無くなった時にすぐに手にいれることができない。すると手元にあったら安心ってなる。人の心理だ。だって、マスクやトイレットペーパー、その他紙製品、マスクを作るための布やゴム、アルコール消毒用品、殺菌の手洗いハンドソープ、そして固形石鹸まで棚から無くなって、さらには家にこもると子どもと一緒にホットケーキを焼く人が増え、ホットケーキミックスが無くなり、今度はイーストや薄力粉まで。納豆が免疫力を高めるとなるとそれも一瞬品切れになってるのだ。欲しい時に買えないかもしれないという不安はつのると思う。

夕方には緊急事態宣言の5月末までの延長が決まった。いろんな意見が飛び交う。もう、詳しく書きたくないけど、このコロナ騒動の中、いろんな人が死んだし、失言をしたり、責めたり、分断したり、それに反応して世の中の言葉がどんどんキツくなる。でもやっぱり、自分が信頼している人は私が思うような発言をしているし、元々何となく違和感があった人はそれなりの発言をしていて、私の感覚と合う人を改めて再確認している感じだ。原発事故の時の反応Aの人はコロナでもAだし、Bの反応だった人はBだ。なんか危機的状況の時、分断されたままずっとその溝は次の危機がきても同じく深まっていくのを見ている感覚。そして全く無視の人は無視のままだろう。なーんかもう、猫と本とお菓子の画像だけ眺めて生きていきたい!なんて気分にもなるけれど、そんなわけにもいかず、かといってまともに全部受け止めていたらしんどいので、こうしてここで書いている。

読書は進まず、右腕は痛いまま、しかもテーピングでかぶれ始めた。今日も早く寝よう。明日は仕事だ。

母からの話だと、残り1匹の猫も調子が悪く、もうそろそろ死んでしまうかもしれない。ここ1、2年、ずっと失い続けている。けど、きっと生きていくっていうのはただただ喪失の連続でたまに得たような気になるけどそれも必ずいつか失うんだよなあ。錯覚しているだけで。なんか残酷だ。それでも向き合って終わるまでがんばるって、本当はすごいこと。