晴天と映画

4月23日(金)晴れ函館

昨日早く寝たからか朝5時に起きる。二度寝で8時まで。徒歩3分のセブンイレブンに行く。晴天、空気が少し冷たくて心地良い。

昼食後に布団に戻り、横になって、Nさんからオススメされていた「透明人間」を鑑賞。サスペンスでありヒューマンドラマというか、人間の心理がよく描かれていてとても良かった。わたしだったら?と何度も思ったけれど答えが見つからない。見終わってNさんに連絡したら、かなり興味深い見解が返ってきて、やっぱりこの人凄いな…と思った。わたしは本にしろ映画にしろ音楽にしろ、いつも表面をなぞっただけの薄っぺらい感想しか言えないからな。

昼間は寝ていた父は夕方からまた活動を開始。今日は食事もまあまあ摂れていて、声も昨日に比べて少し大きくなったような気がする。少しずつ前向きになって、体調も戻ればいいのだけど。気持ちが落ちると体も思うように動かなくなる、何でも億劫になってしまうから。もう少し生きていて欲しい。

今日も早めに布団に入る。

久しぶりの実家

4月22日(木)晴れ

5時起き。東京駅から新幹線に乗って函館へ。

父が調子悪いから、という理由で、コロナ禍にも関わらず。父は確かにふらふらしていてわたしが家に帰っても具合悪そうだった。父は寝ると言って横になり、わたしは母と話す。

そんな長くはないとか、でもそれは生まれたからには仕方ないことで、老化し、弱って最後は死んでしまう。分かりきったことで。だけど少しでも体調良くなって欲しいなとは思う。覚悟はしていかなきゃならない。

夕方になり、父が起きて来る。それで仕事のこととか色々話す。話しているうちに声の調子も変化してきて、本人も何か元気になったようだと言う。

北海道の田舎町ですら、みんなコロナを気にして友達とも会わないようにしている。それで引きこもりがちになり、元気が無くなってしまうようだ。

どっちが危険なのか。本当にもうよくわからない。しかしなんていう時代なんだろう。どんどん人と人が途切れていってしまう。

夕飯後、父はすぐ寝た。

実家の広い湯船に足を伸ばして浸かり、これからどうなってしまうのだろう、と考える。考えても仕方のないことばかり毎日考えている。生活を一新したくても、何も手放せない。つらいことがあるたびに他のつらいことに自ら飛び込んで紛らしている。こんなのも自転車操業と言うのだろうか。とにかく繋いでいる。

早くに布団に入った。

痛みの報酬を求めて

4月21日(水)晴れ、夏のよう

歯医者。神経に到達するまでに削られていく痛みを我慢していたが、最終的に麻酔をかけることになった。いや、ここまで我慢したのは何だったのか、最初から麻酔してくれても良かったんじゃないのとか思ったけれど。

今は、じんじんする痛みをロキソニンで誤魔化している。

痛みを我慢している時、何故なのか、この痛みに耐えたら、の条件でご褒美のようなものが浮かび、何の根拠もない願掛けをしている感じになった。そこには、痛い=耐えてる→耐えた後には良いことが待っている方式がある。本当はそんなことないと思うのだけど、人生にはそう考えでもしないと乗り越えられないことがたくさんある。

単につらい思いをしただけで報われないなんて生きてくのがしんどすぎるから。

お昼頃からジリジリとした暑さが続いて、夏を思い出した。職場に早く着いて、ぐっすり眠った。ここがどこか分からないくらいに。

6連勤が終わった。

ただいま

久しぶりに日記を書いてみようと思った。大っぴらに書けないことがたくさんある。でも、それでも、記録していくことで、先の自分が救われたりするのを知ってるから。誰かのためには全くならないけれど(たぶん)。

ショックから立ち直れる出来事が起こったから書くことにしたのかもしれない。人なんてそんなもん、すぐ忘れるんだ。例えば、もう生きていけないなんて思ってもその時期を何とかやり過ごすと、他のことで喜んだり悲しんだりして、最初の出来事が遠くにいってたりする。次の悩みで忙しいから。

まさしく今はそれで。

無題

正直しんどい。

信頼関係(と勝手に思ってたもの)、繋がったように感じてた心は、あっさり離れてしまう。とても寂しい。

たぶんわたしが悪い。ごめんなさいと伝えることも叶わない。

うざい、「めんどくさい女」なんだろうと思う。きれいな思い出にしたかった。のはわがままなんだろうな。つらい。

何やってんだわたしは。でも何したんだわたし。馬鹿すぎてよくわからない。

ただショックで悲しみが深い。ささやかな願いだったこと、全部崩れ去った。

もう一度だけ話をしたかったな。

存在に耐える日々

3月15日(月)晴れ、暖かい

存在に耐える日々。わたしという。

わたしが、わたしの心がうるさすぎる。

わたし普通のつもりで、なんか年の割に落ち着いてなくて、落ち着き方も分からなくて、もし落ち着いたとしてもそれに満足できるかわからなくて、よくわからないまま、頑張ってこの世界で生き延びてるのだよね。ひとつの物事に囚われると、もうそれしか考えられなく、日常があっさり崩れてしまう。それはうちの利用者も全く同じで。日常の困難さは引けを取らないと思う。

やはり。わたくしも支援が必要な身ではないだろうかと、けれども誰も日々の生活を支えてはくれない。みんなきっとそうで、わたしもずっとそうしてきたけど、だいぶ疲れました。実家帰りたい。帰りたくない。帰ったからといって甘えられるわけでもないしな。赤ちゃんに戻りたい。今度はうまくやれる気がする、たぶん。いや、信用できるか!そんなん!

後悔ってなんだ

3月14日(日)晴れ、風

波立つ心。それでも働いている間は忙しく、必死なので何とか溶け込む。

日常。これが日常だ。戻らないといけない。得てもいないのに喪失感とか、どうにもならない。日々を、とにかく普通の、当たり前の日々を送って時間を過ごしていく。それだけ繰り返していく。少しずつ現実に着地するはず。でも、とまた思う。始まっていないなら終わらないのではないか。心残り、それを無視するのか。後悔は無いのか。わたしには分からない。後悔って、後で悔いるってことなわけで、後にならないとわからないことだからな。けれど自分の後悔しない選択のために人を困らせることはしたくない、とは思う。