水曜の夜の贅沢と『重力と恩寵』

8月26日(水)晴れ

暑い。昨日の疲労感を引きずって、布団の中でウダウダしてたら早番の人からLINE。Aさんが通所しないで居るので、自分が居宅介助に出る前まで、要するに1時間早く来て欲しいとのこと。それで意を決してベッドから起き上がる。昨日ツイートした弱音になんと6人くらいからコメントが来ていた。一人一人に考えて言葉を選んでゆっくりと返信する余裕なく、いいねだけして、家の家事をある程度済ませてから出る。でも、私が疲れ果ててある種落ち込んだ状態に対して、これほど反応してくれる人がいるのか、普段はコメントしないような人でも、異変を感じてくれると行動してくれるんだなぁとありがたい気持ちになった。

そんな中、この間文芸誌で気になったとある作家さんからもコメントをいただく。書く者にとっては、どんな感想であれ批判であれ、話題にしてくれることがありがたいことで、だからわたしには書き手に気をつかうことなく、書き続けて欲しいというような内容であった。

こうして物語を書いて世に出す人というのは、本当にすごいことだし、それを褒められたら嬉しいと思うし、でも「普段本を読まない私でも簡単に読めました。面白かったです」というのだったら微妙な気持ちになるだろうし、かと思ったら、考えが浅いとか表現が陳腐だとか作者をバカにするような読者もいることだろう。的確に、芯を捉えて、わかってくれている感想というものはどれほどあるのか。もしくは、作品は世に出た時点で作者の手から離れるものであり、100人100通りの解釈があり、作者自身意図していなかったことでも、読み手が紐解いてくれ、あ、私、内心それを言いたかったのかも、そこ引っかかってたのかもと仕掛け以外のことに気づくこともあるのかもしれない、なんて想像をする。

それにしても、なぜ、私は常に読み手であり、書き手にはなれなかったか。物心ついた時から、書いていて、でもそれをきちんとした完成物にできず、発表することもできず、ただ時間だけが過ぎてしまった。書くことに覚悟を持たないまま年を取ってしまったのだ。

高校生くらいの時の「絶対に物書きになる」という情熱はどこに行ったのかしら、とふと思う。なぜ、私はこちら側にいて、あちら側には決して行けなかったのか、と。

いつ、どんな形で諦めたのかも思い出せない。もしかしたらまだ諦めていないのかもしれない。けれど、たくさん背負ってきてしまった十字架が重すぎて、人前に出ることはできない。やはり覚悟を決められないということだ。結局こじれたまま終わるんだろう。それ以上に向いているといえる仕事に出会ったことも大きいのかもしれない。

仕事はいつもよりスムーズに終わり、21時半には退勤できた。そのままサウナに寄る。この間回数券を購入したので気軽に行ける。回数券は、金額のお得感以上に、ただそのカードを持っていけば入れるという安心感を買っている感じだ。

すぐ汗だくになるが、水風呂は表示よりも冷たく感じる。入ってしまえばなんてことはないのだけど。そして外で休んでいる時、一度雨がザーッと降って、そしてやんだ。あまりに瞬間的で圧倒的。そして何事もなかったように相変わらず星も少し見えていた。

サウナに毎日行っていた頃は、いかに効率よくスッキリするかで動いていて、1時間で全て完結していたけれど、最近は週に1回行けたら良いくらいの間隔なので、2時間ゆったりと、とにかくリラックスできるように、時間配分とかもあまり考えないようになった。ただ体の指示に従っている。休憩室でのんびりできない(できるけど、やはり危険?)のが残念だが。0時近くになりタクシーを呼ぶ。1社電話に出ず、1社に断られ、3社目でやっと来てくれる。

帰り道、歩いて駅まで行って終電に乗っていた頃は、毎日のようにサウナ通いだったからであって、今じゃ考えられない。週1の贅沢だからこれはこれで続けたいなと思った。帰ってきて、ラジオを聴いて眠った。ラジオは、先月くらいまでと、少し距離感があって、声を出して笑うことはなかった。それはラジオが変わったわけではなく私の心持ちかもしれない。その時期その時期にフィットする言葉、本、映画、ラジオ、いろんなものがあって、それは自分の感覚が変わるたびにチューニングされ続ける。変わっていって当然だ。

手に入れて、過去に手放してしまったシモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』をまた買う。大変な中でも、本当の思いを蘇らせ、純粋さを取り戻したい、言い訳などせずに。

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