ねこの仏さん

コミュニティバス。一時期は結構人も少なかったのだけど、今は普通に乗っている。

今日は、心療内科予約の日で出かける。やっちゃんはお盆休みなので一緒に出て、本屋へ。河出文庫の期間限定の帯を集めると絶対もらえるプレゼントがあって、それを見たのだが、その帯付いてる本がめちゃくちゃ少なく、しかも欲しい本は全部すでに持ってる本で、結局諦めた。本は買わず、スタバ。いちごのフラペチーノにはまっていたのだが、次は桃に変わっていて、それを飲もうと行ったけれど…やっぱりいちごのインパクトが強過ぎた。薄い?色も味も。何となく消化不良に終わった。

その後、私は通院。私の前に呼ばれた人はなかなか現れず、やっと診察室に入っていったのが小学生くらいの男子で、荷物をたくさん抱えている。その数分後、トイレから出てきて急いで母親が入室。10分くらいして男子が出てくるが、母親は出てこないでずっとこもりっきり。その後30分、やっと母親が出てくる。その間に『蕎麦湯が来ない』を読み終わった。心配なのはわかるけれど、次が待ってるのに…と思ってしまう。私なんて診察室に入ってから5分以内で終わらせるよう努力しているのに。いや、特に訴えたい何かとか相談があるわけでもないから自分は短時間でいいのだけど、その後もつかえてるし、正直待つのは疲れる。ぶつぶつそんなことを考える。今回はまあ安定しているということで次回は1か月後。

薬局に寄ると、先ほどの親子が…。そして母親はまた薬局のトイレへ。また荷物を何個も置いて行ってしまった。子どもが呼ばれて薬の説明を受けて支払いを済ませても母親は戻らない。すっかり受け取り終わって、また子どもは待ちぼうけ。何だかとても気になった。もしかしてお母さんのほうに何か困ったことがあるのかもしれないな、と想像…。その後、私も薬を受け取りまたやっちゃんと合流すると何だかまた昨日のように空が暗くなって来て、遠くで雷鳴みたいのが聞こえてるようだった。雨に降られると面倒なので帰りはタクシーにした。

帰ってから何するでもなくテレビ。録画しておいたクドカンの単発のドラマも観る。現代の便利な生活とかネットとかいいねや閲覧数欲しさにやる行動とか、そんなのの行き着く先のホラーだった。あちこちに散りばめられたこの時代が痛かった。

少しだけ街に出て、ちょっとの人混み、数十分の待ち時間とか、ただそれだけで疲れてしまった。もともと疲れやすいけど、このコロナの時代に入ってからなおさらな気がする。それはマスクをしていて常に息苦しい感覚があるから余計に感じるのかもしれない。安全な場所がどこにもないこと。唯一、信じようと思ってるのは家で、空気清浄機とエアコンをかけた自分の部屋。ここは安全と思わないと不眠症は悪化するだろうから。

そろそろ、コロナを気にしない人と、気にする人との差が大きくなってきて、それは職業や家族構成にも関係しているとは思うけど、その差、春にはみんなで乗り越えようとしていたものが、今は「気にし過ぎ」と「気にしなさ過ぎ」で真っ二つに割られているような気もする。人は信じたいものだけを信じるから、情報も偏るし。何かでももう本当、いい加減疲れて来たなあとも思う。

結局怖いのは、病気そのものの他に、差別や偏見、仕事を休むこと、それに付随して職場に迷惑をかけること、その後の生活、後遺症について、とかかなー。あー考えると面倒だな。

そういえば、お盆、今日、ねこの仏さんにあげるお水のコップを買った。小さなグラス。ねこがよく仏壇の水を飲んでいたのだけど、それとおそろいのもので、もっと小さいやつ。ふと見つけた。母は、ねこにもお供えをあげている。カルカンのパウチ袋。たぶん高級でうまいやつ。あーあ。もう会えない。あんなにみんなでにゃあにゃあ言っていたのに。

今年は実家に帰らないけれど、次に帰った時に、その喪失感が襲ってくるのだろうな…

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