精神科のドキュメンタリー

なぜか朝7時に目がさめる。常日頃、土曜日は7時に起きて、蓮見さんのまとめて!土曜日(ラジオ)をリアルタイムで聞きたいと願っていたからかな。脳はそういう時間をちゃんと覚えているらしいのだ。だから本当は目覚ましがなくても起きられるらしい。言い聞かせると起きられるとか。早起きの時そんな勇気はないけれど。でも、思えば目覚ましが鳴る寸前に目が覚めるっていうのは結構あったな、と普段午後からの仕事だから目覚ましをかけなくなった今思い出す。

9時まではラジオを聞いて、朝ごはんを作って食べて、午前から読書。そのうちやっぱり眠くなる。気づいたら14時であった。前に録画してあった『ザ・ノンフィクション』をみる。大阪の夜だけ診察している心療内科の話だった。いろんな人が来る。過労パワハラうつ病になった人、昇進うつ、子どもが欲しいけど独身で、生きてる意味がないと泣く40代の保育士、上司と一緒に来て、上司が就労許可を出してほしいと言ってくることも。問題解決し症状が良くなっていく人もいる。多動で物忘れが激しいADHDぽい男性は、この撮影中にスリで捕まった。

先生は30歳でクリニックを立ち上げ現在35歳。昼間は勤務医、夜は開業医。人の鬱話聞くのしんどいよな。人の死にたい話聞くのしんどい。かまってちゃん行動もあるだろうし、めんどいよな。けど雑に扱ったら本当に衝動的に死んでしまうかもしれないし、怖い。

でも一番びっくりしたのはクリニックでは手に負えないような患者さん(父親から虐待を受けていた元キャバ嬢、20代女性幻聴幻覚あり、自傷行為あり)に入院をすすめ、嫌だと拒否した時、自傷希死念慮があるってことで、医療保護入院の手続きで警察呼んだことだった。え!そんなのあり?そんなに危険だったか?クリニックに警察来るって!私は結構びびった。死をほのめかしたとしても、他の病院へ紹介状を書いて任意入院の道を探るんじゃないのか?!その部分だけ少し怖く感じた。(結局その女の子は警察に保護されたけど、入院はしなかった。そしてもうクリニックに通院することもなくなった。どうなったのかはわからないけど、私は、他の病院見つけてまた先生に死にたい…って言いに行ってると思う。ただの想像)

1時間では収まりきらないような内容をぎゅっと詰めていた感。もっと深く知りたかった。それぞれの人生、先生の苦悩も。

みんな生きづらい、しんどい時代ですね。いやつらさに時代は関係ないのだろうか。生きることそのものがつらいことなのか。NHKでは、「テレワーク鬱」の人も出ててびっくりした。会社行かなくていいから満員電車もなく、人と合わなくていいから気楽なのかと思いきや、人と接しないことでバランスを崩すという。コミュニケーション不足で不安になるのだとか・・・。軋轢があってもやっぱり対面が良いということなのかなあ。なんだか私にはわからない。昔から「会社」っていう真面目な集団が苦手で、できたら遊んで暮らしたいと思ってきたし、今もその考えはあまり変わっていない。少しだけ働いてるのはちょっとした趣味のようなもので、もしくはセラピー的意味合いもあるのかも。もちろん私が和ませてもらう側の。福祉の仕事に関してはほんとう、持ちつ持たれつの関係であることがほとんどで、どちらかが完全に与え、受け取るわけではないからな。たぶんこの感覚ってやってみなかったらわからなかったことだ。支援する側、される側、は完全に固定され、それは「非対称性」と言われてるけど、支援者が上から目線になってしまう…が、それは本質ではない。本当は支援者という人たちも利用者との人間関係に救われていたりする。

あー、今日見たノンフィクションの先生もきっと救われてたりするのかもな。人を助けてるつもりで自分を救ってる。(先生も20代研修医時代にくも膜下出血で倒れ片麻痺が残る障害者の一人である)

それにしても精神科は難しいよな。成果が目に見えないことが多いような。病巣を切り取って、血液検査の結果異常なし!みたいには終われない。本人の気持ちを言葉で聞くことでしかわからない。それもうそか本当かもわからない。気分だからなあ。そんなの薬で治るのか。抑えることしかできないよな。精神科の治療ってなんだろう。

そんなことを考えてるうちに、夕方。夜がくる。早起きして途中で昼寝するのがいいのか、昼近くに起きて夜まで寝ないのがいいのか。相変わらず、何も変わらない日々をだらだら送っている。丸3日間一歩も外に出ていない。自粛しろと言われなくても自然とこうなってしまうな。散歩もしないとなー。

久しぶりにノースウエーブを聞いている。札幌はなんだかモラトリアムな自分を許してくれた場所として記憶されているから、と思ったが、モラトリアム以外の期間のほうが少ない人生だった。いつか何かになろうなとうとして年だけ取っていく。コンプレックスであり、もういいやーという気もする。こういう人でも生きている。