社会福祉士とは?(虚しい夜)

昨日、あまりに仕事がうまくいかず、ものすごく自暴自棄な気持ちになってハイボールなんて買って帰った。気持ちも体力的にも疲れてしまい、仕事中に泣くほどだった。(この職場に来て初めてで、自分でもびっくりした。)

心の中で人を憎む気持ちも湧いてくるくらいだ。でも本当は、何が正解なのか分からない中で、自分の思い通りに進まなかった、そして、中途半端で時間切れになってしまったことが情けなくもあり、悔しくもあり、自身の力を過信していたことにも気づいたような気がする。

家の最寄駅を降りて、住宅街に入り、歩いていると、立ち止まったり歩き出したり、また立ち止まったりしている人がいて、何だか気になった。近くまで来るとそれはお婆さんで、時はすでに夜11時に迫るところ。雨も降ったり止んだりだし風も強い。何となくすれ違った後に、ヘルパー時代の勘が働き、振り返って見た。

お婆さんは、また立ち止まり建物をじっと見ていた。思い切って声をかける。

「どうしましたか?何か探してますか?」すると返事があったので近くに行く。

「いやね、ちょっと散歩」という感じ。「この辺に住んでいるんですか?」と聞くと、あの明かり見えるでしょ、と指差す方は一軒家。

「はい」

「あの明かりのところね、娘が店やってて」

「お店なんですねー」(ここで私は気付いてしまった。何度も何度も歩いた知っている道だけれども、そこにお店は無いから)

などと話し、「涼しいから散歩している」お婆さんの権利を侵害することは出来ず「心配だから早めに帰ってねー」と言って別れた。

私もヘロヘロに疲れ過ぎていて、判断能力に欠けていたように思う。その後、歩くほどに不安が倍増してくる。家に帰ってシャワーを浴び、夫の明日のおにぎりを作って冷蔵庫に入れ、部屋でハイボールを開ける。たいして飲めなかった。

午前1時。

眠ろうと思った。ベッドに入る前に、あのお婆さんは家に帰っただろうか…とまた不安がこみ上げてくる。まだ居たりして!行方不明になったりして!…どんどん想像が膨らみ、不安にかられて、着替えて外に出た。

さっきお婆さんが居た道に着くとすぐに分かった。彼女はまだそこに立っていたのだった。

「○○さーん!」さっき聞いた名前を呼ぶ。たぶん私のことは忘れているはずだ。

「大丈夫ですかー?雨も降って、心配だから、もう寝ましょう!」

「うん、そのへん散歩したら帰るわよー。大丈夫よー。」

「ううん。心配だから。部屋まで送っていきますよー」と伝えると、すんなり家に案内してくれた。(変な人に騙されなければいいが…と、ここでも不安を感じるけれど)

そこはアパートの一室で、ワンルームまたは1K、明るく小ざっぱりとした部屋。ちゃぶ台と畳んである布団が見えた。

「布団敷きましょうか?」と尋ねたが、「いいわよー。大丈夫よー」と言う。

「○○さん、もうね夜1時なのよ。私も寝るから○○さんも寝よう。約束!」と言って握手すると笑って「わかった」と言ってくれ、アパートの前で別れた。その後少しして振り返って見てみたが、彼女は居なかった。

何とか家に送り届けることができ、私もやっとベッドに入り眠ることができた。

!!!!

私は、この日何を考えていたか。

それは、「社会福祉士」「ソーシャルワーカー」って何なのだろうという、自分に対する問いだった。社会福祉士ソーシャルワーカーと称することもあるけど、厳密にはイコールではない。社会福祉士は国家試験に受かって初めて名乗ることのできる名称独占資格と言われている。社会福祉士以外の人が社会福祉士を名乗ることは禁じられているっていうだけ。(例えば医師は、業務独占資格といい、その業務は医師国家試験に合格した者しか行えない)

ソーシャルワーカーは、別に社会福祉士じゃなくてもできるし、名乗れる。

じゃあ社会福祉士の意義って何なのだろう。

資格を取ってから(取るために大学に行き、実習に行ったり、勉強をしている時からも)思ったけれど、これって…専門性ある?っていうことだ。(その点介護福祉士は分かりやすい。技術的にも心理的なケアにしても介護のプロだ。)

確かに社会福祉というものを体系的に学ぶことができるとか、対人援助の心構え的なこと、制度のことを学ぶには悪くない。何も知らず権利侵害をしたりするのを現場でもよく見てしまうことがある。でもそれって学んだから、学んでないから、とかなのだろうか?人として真摯に接しているだけでいいのではないか?人権って、学ばなくても、専門性がなくても当たり前に守られるものじゃないのかなとも思う。

社会福祉士とはどんな存在なのか、どんな資質が求められているのか、少し長いが倫理綱領から引用する。

 

社会福祉士の倫理綱領】

われわれ社会福祉士は、すべての人が人間としての尊厳を有し、価値ある存在であり、平等である
ことを深く認識する。われわれは平和を擁護し、社会正義、人権、集団的責任、多様性尊重および全 人的存在の原理に則り、人々がつながりを実感できる社会への変革と社会的包摂の実現をめざす専門 職であり、多様な人々や組織と協働することを言明する。
われわれは、社会システムおよび自然的・地理的環境と人々の生活が相互に関連していることに着 目する。社会変動が環境破壊および人間疎外をもたらしている状況にあって、この専門職が社会にと って不可欠であることを自覚するとともに、社会福祉士の職責についての一般社会及び市民の理解を 深め、その啓発に努める。
われわれは、われわれの加盟する国際ソーシャルワーカー連盟と国際ソーシャルワーク教育学校連 盟が採択した、次の「ソーシャルワーク専門職のグローバル定義」(2014年7月)を、ソーシャル ワーク実践の基盤となるものとして認識し、その実践の拠り所とする。

 

【原理】
I(人間の尊厳) 社会福祉士は、すべての人々を、出自、人種、民族、国籍、性別、性自認、性的 指向、年齢、身体的精神的状況、宗教的文化的背景、社会的地位、経済状況などの違いにかかわ らず、かけがえのない存在として尊重する。 
II(人権) 社会福祉士は、すべての人々を生まれながらにして侵すことのできない権利を有する存 在であることを認識し、いかなる理由によってもその権利の抑圧・侵害・略奪を容認しない。

III(社会正義) 社会福祉士は、差別、貧困、抑圧、排除、無関心、暴力、環境破壊などの無い、自 由、平等、共生に基づく社会正義の実現をめざす。

IV(集団的責任) 社会福祉士は、集団の有する力と責任を認識し、人と環境の双方に働きかけて、 互恵的な社会の実現に貢献する。

V(多様性の尊重) 社会福祉士は、個人、家族、集団、地域社会に存在する多様性を認識し、それ らを尊重する社会の実現をめざす。

VI(全人的存在) 社会福祉士は、すべての人々を生物的、心理的、社会的、文化的、スピリチュア ルな側面からなる全人的な存在として認識する。

***

 

さて。立派!!としか言いようがない。

こんなたいそうなこと学んでおきながら、何ができてる?

数人の障がい者の生活の中でしか動けていないし、そこでも1人の利用者を前にして、まるで使い物にならず、てこずって押し問答の、言い合いの、暴言吐かれ、疲労困憊の完敗に終わって打ちのめされて帰って、そして、夜中の散歩(深夜徘徊とは言いたくない)の人をどこにも繋げることも出来ず(そこまで介入すべきかも判断不能。私が地域で何も繋がりを持っていないという弱点に気づく)、様子見で終了である。

社会福祉士取得を意気込んでいた頃は、取得したら何かとても大きな道がひらけるような気がしていた。実際、社会で大きく変革を起こして活躍されている方もいる。(少ないけれど。私が知っているのは貧困問題、労働問題に取り組んでいる人たちだ。)

でも、私のように単に組織に属しているだけ、その制度内で言いなりになって働いているだけの社会福祉士になんの価値があるのだろう?

自分の地位の低さと人脈の無さ、社会的頼りなさに虚しさを覚えた。

社会福祉士は、例えば施設長になるためには必要な要件だったりする。でも、倫理綱領を読む限り社内で出世するための資格ではないのは明らかで、でも何の権力も持たない人間がこの資格を取ったところで、給料に少し資格給が上乗せされるくらいが関の山だろう。

機能してない…と思っている社会福祉士はこの日本中私だけはないはず。

この現実。本当は変えていかなければならない。

自分(社会福祉士)が役立たずで情けなくなったのは、この日だけではないけれど、昨日は心底、きつい…と思ったのだった。

長々と愚痴とも問題提起とも何とも言えないことを書いてしまったけれど…読んでくれた方、ありがとうございます。